姫路 加古川 自然素材 リフォーム ヤマヒロ 古民家再生 ホーム> ヤマヒロ物語 > 手形に追われる苦労の日々、転換期のきっかけとなる友の「救いの手」

ヤマヒロについてヤマヒロ物語

手形に追われる苦労の日々、転換期のきっかけとなる友の「救いの手」

当時のヤマヒロしかし、製材業時代からの累積赤字が多くあったため、
協力業者さんや材料問屋への支払に手形を多く発行しておりした。
仕事が増えれば増えるほど手形に追われる日々が続き、
新しいサービスや商品開発に知恵が廻らない。

そんな中、創業者がガンで入院しました。
創業社長は、元々芸術家肌で趣味が多かった半面、
商売はうまくなく、大きな累積赤字をつくりました。
そのため、息子である二代目(現会長)に頼って早々に引退し
隠居をきめこみ、二代目からは反感を買っておりました。

しかしながら、この創業者が倒れてまもなく地元山崎のある会社の社長がヤマヒロを訪れ、唐突に『保証人になるから5千万を借りろ。そして手形の商売はやめろ。借金は業者にするものではなく銀行からするものだ。5千万はゆっくり返せばいい。』とおっしゃいます。

この方は、ヤマヒロの創業社長の後輩の方でした。
創業社長がガンで倒れたことを知り、『三渡さん。あんたは商売は下手だったけど、あんたには世話になったから、息子さんのことは私に任せておきなさい。』と、病院のベットの横で約束をしていただいたようです。

そうして、この方のお名前で、そのころのヤマヒロではとても貸してもらえないような大金、5千万を借りることが出来、昭和62年、一切の手形をやめることができました。
これにより、手形の期日に追われる毎日から、商品やサービスの向上に集中できるようになったのです。

その次の年、昭和63年、昭和天皇崩御の半月前、まるでその露払いをするかのように、ヤマヒロの創業者三渡弘が逝去しました。
67歳の若さでした。商売から逃げる創業者を恨む気持ちの強かった二代目ですが、その創業者のおかげで地元の有力者の援助をもらい、手形商売から抜け出すことが出来ました。
この出来事はその後のヤマヒロに大きく影響します。