ヤマヒロ物語

魚や野菜の出荷用の杉の箱を作る製材所としてスタートした創業時代

今から約半世紀前の1958年(昭和33年)、
兵庫県の西部『播磨地域』の北、
林業の町宍粟郡(現宍粟市)山崎町で
ヤマヒロは魚や野菜の出荷用の杉の箱を作る
製材所として創業いたしました。

創業者は三渡弘。
大東亜戦争で辛酸をなめた中国の戦線から帰還し、
兄の製材所を手伝っていましたがこの年に独立。
『山崎町の弘』から屋号を『山弘製材所』としました。
一方、敗戦から立ち直ろうと必死でもがいていたこの昭和30年代の日本は、農林水産業にかわり産業の主役が重化学工業になっていきます。

ヤマヒロのある播磨地方の瀬戸内沿岸部でも重化学工業の大型プラントが次々に出来、海外への輸出による外貨の獲得で、貧しい敗戦国から経済大国への礎を築いていきました。国家間の綱引きにより、重工業の輸出をする代わりに農林水産業は大規模な輸入を始めます。
この地域の沿岸部にも大規模な外材専用木材港が出来、その周辺には大型製材所が多く立ち並びはじめました。

そして昭和40年頃、高度経済成長が始まり、全国で建築ブームが起こります。
また農業や漁業の出荷用の箱にもプラスチックやダンボールなどの軽くて安価な代用品ができ、木箱の需要が減少したこともあり、これらを作る小さな製材所は、米松や北洋といった外材を挽く建築資材の製材業へと変わることを余儀なくされました。
ヤマヒロもこの時期に建築資材の製材業へと転換しております。

相次ぐ事態に多くの製材所が破綻、ヤマヒロも例外なく、ついに事実上の倒産...

しかし、この頃の外材は外貨の変動に合わせ、流通価格が大きく変動し、仕事は山のようにあったのですが、挽けば挽くほど赤字が出ました。
そのため、小さな製材業はどんどんと廃業へと追いやられ、宍粟市でも120社あった製材所が3分の1以下になっております。

さらに万博を成功させ高度経済成長期にあった日本を昭和46年にドルショック、昭和48年にオイルショックが襲い、経営的に衰弱していたこれらの製材所は、ほとんどが倒産・廃業・転業などしていきました。
このときにヤマヒロも製材業が立ち行かなくなりました。
こうして昭和48年に、その頃にお付き合いをさせていただいていた木材問屋さんのご好意のおかげで不渡りだけは免れましたが、ヤマヒロは製材と建材卸業を廃業をしております。
この木材卸問屋さんに建材部門を吸収合併された形で、建築部門のみ屋号の延命が図られ昭和51年、完全に建築部門だけになっての再スタートを切ることとなったのです。

小さい仕事を「ゴソ仕事」と言い職人が嫌がる時代、
ヤマヒロは「ゴゾ仕事専門業」で再スタート

この時期、政府の景気対策の影響もあり建築ブームが再来。
建築業界は空前の好景気となります。
企業の設備投資による大型の工事をはじめ、戸建工事も活況を呈します。

そんななか戦後30年が経ち、『ちょっとトイレだけを改修したい』や、『家族が増えるから二階に増築を』などという要望が出始めました。
このような小中規模の改装仕事は、今でこそリフォームという言葉が当たり前になり、リフォーム専門の会社もありますが、この当時では、大型の工事に比べて『ちまちまと小さくてやりにくい仕事』という意味で『ゴソ仕事』と言われ、充分に仕事があった職人さんからは嫌われる仕事でした。

ヤマヒロはここに目をつけます。
他人のいやがる仕事でも、需要が多い。つまり改装をしたいのにしてもらえなくて困っておられるお客様が多い。
これを専門にやれば多くの方に喜んでいただける。
こうしてヤマヒロのリフォーム部門の前身が、昭和57年に改装の専門会社(株)山弘営繕サービスとして誕生しました。

この営繕サービスが順調に伸びます。
一件一件の仕事は大きくはありませんが、集まったら充分に会社運営を出来る仕事量になります。
しかも大型工事と違い、工期が短くてすむために工事代金が入ってくるのが早くなり、キャッシュフローが改善され始めました。
営繕サービスの需要が増え始めたため、姫路にも営業所を開設、更に58年には灘神戸生協(現コープこうべ)の組合員対象のリフォーム工事請負も開始し、いよいよ宍粟だけでなく姫路にも進出します。
こうして大型のゼネコン工事と小型の改装工事の2本立てで仕事の量が増え始めました。

手形に追われる苦労の日々、転換期のきっかけとなる友の「救いの手」

当時のヤマヒロしかし、製材業時代からの累積赤字が多くあったため、
協力業者さんや材料問屋への支払に手形を多く発行しておりした。
仕事が増えれば増えるほど手形に追われる日々が続き、
新しいサービスや商品開発に知恵が廻らない。

そんな中、創業者がガンで入院しました。
創業社長は、元々芸術家肌で趣味が多かった半面、
商売はうまくなく、大きな累積赤字をつくりました。
そのため、息子である二代目(現会長)に頼って早々に引退し
隠居をきめこみ、二代目からは反感を買っておりました。

しかしながら、この創業者が倒れてまもなく地元山崎のある会社の社長がヤマヒロを訪れ、唐突に『保証人になるから5千万を借りろ。そして手形の商売はやめろ。借金は業者にするものではなく銀行からするものだ。5千万はゆっくり返せばいい。』とおっしゃいます。

この方は、ヤマヒロの創業社長の後輩の方でした。
創業社長がガンで倒れたことを知り、『三渡さん。あんたは商売は下手だったけど、あんたには世話になったから、息子さんのことは私に任せておきなさい。』と、病院のベットの横で約束をしていただいたようです。

そうして、この方のお名前で、そのころのヤマヒロではとても貸してもらえないような大金、5千万を借りることが出来、昭和62年、一切の手形をやめることができました。
これにより、手形の期日に追われる毎日から、商品やサービスの向上に集中できるようになったのです。

その次の年、昭和63年、昭和天皇崩御の半月前、まるでその露払いをするかのように、ヤマヒロの創業者三渡弘が逝去しました。
67歳の若さでした。商売から逃げる創業者を恨む気持ちの強かった二代目ですが、その創業者のおかげで地元の有力者の援助をもらい、手形商売から抜け出すことが出来ました。
この出来事はその後のヤマヒロに大きく影響します。

原点を振り返るために勉強した日々、そして新たなヤマヒロが誕生、それは「感謝」

二代目(現会長)の三渡圭介は、この年に日本創造経営というコンサル会社に学びます。
内容は、会社を繁栄させるには先祖・家族に感謝すること。
そのためにはまず、家族のルーツを知ること。そのために家系図の作成を始めたのです。
親戚やその菩提寺をまわり家系図を作成します。

その結果、代々の先祖、そして父である創業者たちのそれぞれの苦悩を知ることとなります。
多くの先祖が多くの苦難を乗り越えて、その結果として今ここに自分がおり、会社が存在することを知ります。
そうして徐々に感謝の気持ちが会社の社風に加わり始めました。

不況にも負けず、新しい展開を進めるヤマヒロ、その背景には沢山の支えがありました。

現在のヤマヒロ本社 平成の世にはいり、世の中は空前絶後の好景気となります。
バブルです。
土地や絵画がありえない値段で売り買いされ、
大企業の設備投資が多く行われたころです。

そしてバブルは崩壊。
世の中が平成の大不況といわれ始めたのがこのころでした。
地価は一気に下落、世の中は混乱します。

しかし、創業者の死後、社風に感謝の気持ちが出来始めたヤマヒロに対し、創業者の友人をはじめ多くの人々から支えていただけるようになっておりました。
また、改装工事の小さな物件を多く集めることにより、安定した売上げが可能となり、ヤマヒロは順調に伸び続けました。
そうして平成4年ついに累積赤字が0となります。

  • 『OMソーラーハウス』により環境に配慮した家づくりに大きく方向転換をはかる
  • チラシ営業を行なっての、本格的な『リフォーム業』の開始
  • 品質確保法を積極導入するためのプレカット工場の建設
  • 建築材の流通の改革を目指した『(協)しそうの森の木』と、兵庫県の後だてによる『ひょうご木のすまい』の創設
  • 地元林業の復活を目指した『しそう杉の家』の開発

など多くのビジネスモデルや商品開発をおこない、現在に至ります。

それはこれまでの苦しい道のりの中から、平成5年に生まれた企業理念に全て起因します。

人々に必要とされている事業を通じて、ヤマヒロは「お付き合い100年宣言」

社員たち会社の低迷、創業者の死、世の中が路頭に迷うなか、多くの人々に助けていただき、
家系図を作って先祖や創業者の思いを知り、人として、
また、企業としての使命感を持つに至った結果できた企業理念です。
いろんな解釈があるとは思いますが、一言で言えば『継続』であると言えます。
会社を継続させること。
これがお客様にとっても、社員にとっても、最高のサービスであり、
最高の商品であります。
そしてそのサービスや商品が生きた証であります。
継続させるための努力の中に、お客様、そして地域の歴史・地域の社会への想いが生まれます。
それは感謝の気持ちかもしれません。

ヤマヒロの看板ヤマヒロが創業して今年もうすぐ60周年を迎えます。
多くのお客様や業者様、
そして社員たちに支えられてなんとか継続をしてきました。
人々に必要とされる事業はつぶれることはありません。
人々がつぶさないからです。
ヤマヒロが地元の林業をはじめとする産業の復興にこだわるのはそのためです。

地域社会に対して貢献できる会社であり続けること。
それが会社を継続させるための絶対条件です。お客様と100年のお付き合いが出来る会社になるためには、あと最低40年継続させる必要があります。

『おつきあい100年宣言』は60年の苦難の歴史を乗り越えてきたヤマヒロの想いです。